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● 幸せの定義 |
――幸せにする自信など、これっぽっちもない。
そう、告げて彼女と付き合ったのは、それほど遠くない過去。そして手を離したのも同じくそう遠くない過去で。
けれどたった2、3年の日々でも、今の自分たちには遠い昔話のようだとゼロスは思う。
目の前でひらひら揺れる桃色の帯も、風が吹くたびに額の上で揺れる漆黒の前髪も当時のまま。ただ、仄暗い海底のようだった眼差しだけが、まるで陽の光が差し込んだ窓辺のように、きらきらと透き通っているのが違う点。
「ゼロス! まぁーったくあんたは何ぼーっとしてんだい」
まだまだやることはいっぱいあるんだよ、と、腰に手をあてて豊満な胸を突き出すようにしながら、椅子に腰掛け、自らの膝についた片腕に顎を乗せているゼロスを非難する。非難を受けたゼロスは「へいへい」と気の無い返事をしながら、嫌というほどに積み上げられた書類の山を見上げた。
大体なんでこんなに書類があるのかと思う。まあ、長い間この世界を導いていたマーテル教が名実共に意味を為さなくなり、一つになった二つの世界の本来の意味での統一を果たすため、教会の在り方や神子という制度、人間やハーフエルフといった種族の問題。分岐してしまったあらゆるものを把握し、整理し、導かなくてはならない。だからこその結果だと、頭ではわかっているけれども。
いつになったら落ち着くのかと、愚痴を零したくなるのも正直なところで。
「俺さま、ロイドと一緒に旅に出るつもりだったんだけど」
「この書類を片付けて、なおかつリフィルの了承が取れたら好きにするがいいよ」
「げっ! そいつはどんな無理難題よりも不可能じゃねーかよ〜」
「そういうことだよ。さ、ロイドはロイドが出来ることをしに旅立ったんだ。あんたがあんたにしか出来ないことをやらないでどうするんだい」
こうやってあたしも手伝ってるじゃないか、と、ぶつぶつ不満を漏らしながら燃えるような色の髪を指に巻きつけていじけたフリをする男を一蹴する。だがゼロスはなおも仕事を再開せず、それどころか椅子の上に足を乗せて膝まで抱える始末。
いつもならふざけながらも仕事はちゃんとするのに、と、意外に冷静にゼロスを判断したしいなは、もしかして具合でも悪いのかと心配をする。
だがしかし、先ほど運ばれた昼食は一つ残らずぺろりと平らげたし、午前中は午前中で起床後1刻ほど身体を動かした後はシャワーを浴びて、運ばれ続ける書類に目を通し真面目に仕事をしていた。顔色も悪くない。
しいなは首をかしげながらゼロスに近づく。椅子に座っている彼の目線は自分よりも低く、いつも見上げてばかりのそれが下にあることに妙な感覚を覚えながら、なんだか少しくすぐったい。
「なーにぼうっとしてるんだい」
指先でつい、と。思ってた以上にゼロスの頭が後ろに揺れる。
一方のゼロスは額に触れた細いくせに柔らかな指先の感触に熱を帯びる。ああ、そういえば初めてこの手に触れたのも、数年前の話。
籠の鳥だと思っていた。
けれど彼女は違っていた。
自分は置いていかれたと思った。
――ならば自由に羽ばたけと、手放した。
(違うだろ)
籠から逃げることが出来ないと思い込み、壊してくれと伸ばされた手に縋りかけた愚かな自分。けれどそうしたことも、仕方ないと思えるほどの過去を弱さだとは思いたくない。
あの重く暗い過去は歴然としてそこにあり、それに負けそうになった自分を弱いとは思わない。乗り越えたことで、過去の自分を否定するつもりはない。そこまで、自分は刹那主義でもなくて。
「しいな」
呼んだ声に返される反応。
それは視線であったり、なんだい、という声であったり。時に、微笑みであったり。
それを得られたのはきっと、壊された籠から伸ばした羽のせいではなく、自分で鍵をこじ開け飛び立ったからこそ。
それ以上言葉を続けない自分に、小首を傾げて。その仕草で結い上げられた毛先が揺れる。ああ、こんなところもかわってねえよな。
ゼロスは小さく笑う。ますます眉根を寄せていぶかしむしいなのくるくる変わる表情が愛しくて、こみ上げた笑いを抑えるために一度視線を外す。
「なんだってんだい、まったく!」
人の顔見て笑うだなんて、失礼じゃないか。
怒るしいなに、悪ぃ悪ぃと片手を挙げながら謝罪を告げて。悪いと思ってないだろ、と振り上げられた手を、掴む。
「な、なんっ、何するんだい!」
瞬間的に頬に朱を乗せ、慌てふためくしいなにゼロスが眼差しを細める。それは本当にわずかで、きっと気付かなかっただろうけれども。
「こーゆートコも変わらねえよな」
「何がだい、いいからお放しよ!」
見る見るうちに、握り締めた手のひらまでもが赤く染まる。初めて彼女の手を握ったときなど、鉄拳が飛んできたことを考えればまだ進化したと思うべきか。
鍵は開いた。扉を開けた。空を、見上げた。
羽ばたくために羽を広げ、――さあ、どこへ飛んでいこうか。
視界の先に、黒曜石の瞳。そこにうつるのは、なんと満足そうに笑う自分だろうか。
「なあ」
「なんだい」
「『幸せ』って、なんなんだろうな」
あの頃はそれが何だかわからなくて、ただ手の届かない、霞のようなものだと思っていた。そして届かないからこそ酷く甘く見えて、幼い子どものような癇癪で無理やり手にも入れようとした。
しいなはきょとりとゼロスを見る。そして普段ふざけた表情しか浮かべることの無い男が、存外に湿り気を帯びた眼差しで自分を見ていることに気付き、一瞬だけ躊躇した後未だ解放されていない手のひらで逆にゼロスの手を包む。
「こういうことじゃないのかい」
きう、と、包まれる手に、力が伝わる。
見上げれば、少し困ったように、けれど確かに微笑むしいながいて。
「あんたが馬鹿なことしたら、あたしが叱ってやる」
「……そいつぁ怖いな」
「その代わり、あんたが偉かったら、ちゃんと褒めてやる」
「……」
「見ててくれる人がいるってことが、そうじゃないのかと、あたしは思うよ」
あんたにとってのそれが、あたしだなんて思わないけど、と、付け足して。
又、笑った。
先に羽ばたく親鳥の姿を求めていたような気がする。
背を向けられても、決して置いていかれないという安心感を持てる相手を。それこそ縋るような気持ちでずっとずっと。
けれどしいなは自分の母親ではないし、無意味に自分を甘やかすようなことは決してしない。あの時も、自分を置いて先に行ったと思ったし、旅の途中で逃げることをやめると宣言したときも、そうやって又先に行くのかと、恨みも悔やみもしたけれど。
自分が羽ばたくことを覚えたときに、すぐ先に見えたのは彼女の桃色の羽。
「それ」
「ん?」
「帯。しいなの」
「ああ、これかい?」
結び目から伸びた端を、自由な片方の手でつまみ、ひらひらと振る。それはまるで、自由に羽ばたく小鳥の羽のよう。
つかんだはずが掴まれた手を、更に握り返して。驚いたように軽く目を見開いた少女に、気付けば甘く揺るぐ眼差し。だらしねえなあ、と、自らを笑いながらもこんな自分も決して嫌いではないとゼロスは思う。
「いい色だよな、それ。しいなに似合ってるぜ」
言えば彼女はふわりと笑う。照れくさそうに、そうかい?と、口にしながら。
幸せにする自信も、なれる自信もない。それはこれから先もずっとそうだろうと思う。
けれどあれほど渇望した甘い果実がそれではなく、彼女がいうことが本当の『幸せ』ならば、きっとそれはすぐそこに。
こくり。らしくなく、息をのんで。
(もう逃げない、って、決めたんだろ?)
もがれた羽でも飛べると、知ったあの時から目指す先はただ。
名前を呼ぶ。見つめ返す瞳。きらきら揺れて。
何かを察し緊張したように甘く噛まれた唇に、触れる権利を今この手に。
「しいな」
そして桃色の小鳥を手に入れる。
fin
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Comment:
『鳥籠』の続編。
そもそもこの話が書きたくて、鳥籠を書いたようなものなのですが、
わたしがゼロしいを書きたいなあと思うのは、友人二人の影響が大きいわけで。
あの時は飛べなかったゼロっさんが「飛べて」、似合わなかった桃色の帯が、
しいなにもちゃんと似合うようになって。
そんな変化が、二人でいることの意味だったらいいなあと妄想詰め込み。
このお話は、色々とオンオフともに極寒の地にいた片瀬を助けてくれた
まのあずみさんに捧げさせて頂きます。
本当にありがとうでした。感謝。
20040803up
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