『小鳥鳴く駕籠の外 / 孟徳×花』


「……酷な事を言うかも知れないが、お前がここにいた所で花の容態が良くなる訳でもない。お前にはお前のやるべきことがあるだろう」
  花に対して何かを出来るのは、医者だけだ。そして只人と違い、丞相である孟徳には義務としてもやらねばならぬことがそれこそ山積しているのだ。
「孟徳、いい加減仕事に戻れ」
「嫌だ。離れたくない」
「孟徳」
  頑なに聞き分けない主に声を厳しくすれば、再びの沈黙が部屋に満ちる。
  緩やかに入り込んだ風が遮光の布をくすぐり、身をよじったそれはその衝撃が過ぎれば又元の位置に戻っていく。
「だって目を覚ました時に傍にいたい。ちゃんと君は生きてるんだよって花ちゃんに言ってあげたいんだ」
  やがて続けられた言葉は、酷く弱々しいものだった。
  毒の塗られた刀を花がその身に受けてから、既に二日が経過している。一昨日の晩、花が斬られたという事実を把握してから即座に医者を呼び、手当てをさせたが意識は一向に戻らないままだ。
  花が意識を失う直前に言った、自分が飲むはずだった水に仕込んでおいた眠り薬のせいなのか、それとも生死の境を彷徨っているが故か。どちらにしても、花の意識が戻らないという事実そのものが、孟徳を打ちのめす。怪我には安静が一番と分かりつつも、細い肩を掴んで揺り起こしたくなってしまう程の不安が全身を支配して。
  あの夜、孟徳のただならぬ声に飛び込んできた医者は、手当てを始めるその前から事の重大さを把握したかのように顔つきを厳しいものにした。
  花と顔見知りであったその老医師は、花の顔色を見、次いで背に受けた傷を見、口元を硬く結ぶ。
  硬い声で近くにいた兵士に必要なものを指示すると、場所を移す時間すら惜しいとでもいうように花の手当てを始めた。傷を受けた場所からは、その瞬間からも滾々と赤い生命が流れだしており、彼女がいつも身につけていた白い着衣を染めていく。
『丞相殿、手をお離し下され』
  言われ、孟徳は初めて自分が花の手を固く握り締めたままだったことに気がつく。言われるがままにゆるゆると手を離すと、花の指は孟徳の手を握ったままの形で固定されていた。まるで、人形のように。
  彼女の肩から腕にかけて走った傷の周囲をみれば、その毒がどれ程強力なものかを示すかのように紫にも黒にも似た色に変色し始めていた。そしてその分、孟徳が顔の色を失う。
  どうして。どうして。
  もう何度思ったかもしれない後悔と懺悔をそれでも繰り返し、目を覚まさぬ少女を見る。お願いだから、早く起きて。俺を見て、俺の名前を呼んで。
  まだたった二日だというのに、もう幾月も花の声を聞いていないような気がする。仕事が忙しく、二日どころがもっと会えない日だってあったのに、どうしてこうも焦がれるのか。
「医師の見立てでは、あと数日は目を覚まさないのだろう?」
「でも、目を覚ますかもしれない。俺が席を外したほんの少し後に、目を覚ましたらどうする」
「そんなことを言っていては、文若が過労で死ぬぞ」
「それに」
  呆れすら乗せた元譲の言葉に孟徳のそれが重なる。
「それならいい。まだ、いい」
  自分が席を離した隙に、目を覚ますのならば。覚ましてくれるのならば。
  握り締めた手に移した自分の温度など、離れてしまえばわずかな時で消えてしまう。同じように、自分が与えた熱と同じように彼女の命が。
「もし……もし、目を離したほんのわずかな隙に、万が一、彼女が」
  その後は、恐ろしすぎて言葉にすら出来ず黙り込む。己の言いかけた言葉を否定するかのように、花の手を握り締める強さを増して。
  かつて無いほどに衰弱した主の背を見、元譲が眼差しを細める。親友に裏切られた時に見せた絶望は、同じほどの怒りに塗り潰されていた。だが今の孟徳には、生きる力にも繋がるその怒りすら無い。絶望の淵に沈みかけ、かろうじて指先にひっかけた細い蔦に全体重を預けているようなもの。
「孟徳……お前は、彼女を信じるんじゃなかったのか」
  もしその蔦が切れたら、どうなってしまうのか。
「彼女だから、信じてやるんじゃなかったのか」
  誓いの媒体となった元譲が、自らその破棄を願い、低く呟く。
  自分を信じろとは言えない。言わない。言ったところで、どれ程の意味があろうか。
  呪詛のように孟徳を縛るあの誓いは、一生違えられることは無いと元譲は諦めていた。
  この乱世の時代で、人を信じることは最も己の命を危険に晒す。
  だが、人を信じぬことも同じだ。要するに、その釣り合いがこの世を生きていく上で一番大切なものだというのに、目の前の男は釣り合いを破棄して誓いを立てた。
  それを浅はかだと言うことは出来ぬ。目の前で同じ光景を見たからこそ、元譲には決して言えなかった。直接的に裏切られたのも、かけがえのないものを失ったのも自分ではない。その自分ですら、あれ程までに空しさと怒りを覚えたのだ。当人ならば、と、想像すら追いつかないその絶望。
「大丈夫だ。この娘はおまえを残して死んだりはしない」
  まさかこんな小さな娘に、望みの全てを託すことになろうとは。
  花が助かることと、孟徳が救われること。
  自分の望みは、どちらなのだろうか。
「お前の大丈夫なんて、あてにならん」
「俺のことは信じなくていい。だから、花を信じてやれ」
  元譲の言葉に、花の手を掴んでいないほうの手が強く握られた。
  信じる、とは一体、どういうことだっただろうか。
  忘れて久しいその言葉を反芻した時に浮かんだのは、花の笑顔だった。
  信じるに値する行動や言葉ではなくて。ただ、笑顔。
『孟徳さん』
(花ちゃん)
いつだって自分は、花の事を信じたかったに違いない。
  信じない、と決めていたあの呪いじみた誓いだって、自分を守るはずのものだったのに、花と出会ってからは自分を苦しめる為のものでしかなくなっていて。
(信じないと決めたくせに、信じてもらえないと勝手に傷付いて。それ以上に、君を傷付けて)
『ひどい、です』
  傷付いた顔。涙。震えた声。
『ごめん、なさい』
  力の失われていく手。緩い微笑み。鼻に付く血の匂い。
(ごめんなさい、なんて)
  ――君が謝る必要なんて、ただの1つだってなかったのに。
「元譲……俺、お前に誓ったあの気持ちは嘘じゃない。もう二度と、誰も信じないと決めた。最初から裏切られるものだと、裏切るのが人間なのだと覚悟していれば、あんな無様な真似をせずに済むと思った」
「……」
「二度と御免だった。誰かに心を預けて、挙句死にかけるなんて。今の俺の立場なら尚更だ」
  失態と裏切りの証が刻まれた左手を見る。醜く引き攣れた火傷の痕を見るたびに、あの時の感情がわきあがってくる。
  けれど。
  信じない、ことで。大切な誰かが命を落としてしまうならば、自分が死んだほうが遙かにましだとわかってしまった。
  丞相ではなく、孟徳個人として。あの誓いは、双方のものであったというのに。
  いつのまにかこんなにも、花を信じたくなっている。自分を好きでいてくれると、傍にいてくれると。ずっと、裏切らずにいてくれるのだと。
  辛い。辛い。辛い。
  それきり黙ってしまった孟徳を残し、元譲は部屋を後にする。あんな姿を見せられるくらいなら、まだ当たり散らされていたほうがましだと思いながら。
  信じていたものに裏切られ、命を奪われるのと。
  自分を裏切らぬが故に大切な相手が命を落とすのと、どちらが過酷なのだろうか。
  詮無い事を思い、自嘲する。そもそも、このような比較をせねばならぬ運命を背負わされている事それ自体が、すでに過酷なのだ。
「元譲殿。どうでしたか」
  文若の問いに、元譲はただ首を左右に降る。分かりきっていた答えにそれでも文若は重いため息を零し、「開いているのかわからない」と評された眼差しを元譲から逸らす。
「すまんな」
「別に、貴方に謝られることではありませんから」
  それきり自分を振り返る事無く仕事に戻った同士の背に、苦笑を乗せて元譲が声をかける。
「まあ、過労死しない程度に頑張ってくれ」



→ to be continued