『たなごころ / 斎藤×千鶴』



 斎藤さんは、そう思うんですか? と、分かりきった問いをあえて口にすれば、やはり返されたのは「否」の答えだった。
「俺はただ仕えるべき主の恩義に報い、共にこの場所へ来た。己の意思でとった行動に、不運もなにもあるまい」
「なら、私だって同じです」
「いや、おまえの場合は違うだろう」
「何故ですか?」
「あの夜……あの場に居合わせさえしなければ、別の人生がおまえにはあった」
 斎藤の告げた言葉の指す「あの夜」が、いつを指すのかを気付くのに時間は要しなかった。
 今でもはっきりと思い出せる。初めて目の当たりにした人の死。体内にあるべき赤いものが、外へと流れ出ていく様。それを実行した、二人の人物。彼らの纏う、浅葱の羽織。
 江戸とは違う京の夜の空気。発する言葉を奪われる程の恐怖。総じて喜ばしいことでは決してなかった。経験しなくて済むのならば、一生縁遠いものであって欲しい数々。
「……怖かった、です」
「……」
「追いかけられて、殺されそうになって。かと思ったら、その人たちが……斬り殺されて」
 それから暫くの生活も、決して喜ばしいものではなかった。当面の宿や食事と言った生活を保障された反面、本来の目的であった父親探しをする為に必要な「自由」を奪われた。
 いつ殺されるかも知れない恐怖と戦い続けたという、綺麗な話ではない。見ないふりをしていた。それだけで精一杯だった。
 頼れる人などいない。協力を惜しまないといってくれた近藤ですら、組織の為ならば非情な判断を下すということに疑いなど持たない。自分が それまで暮らしてきた世界とはあまりにかけ離れたそれが、彼らにとっての「日常」なのだから。
 自分が自分であることを見失わないように、出来ることをするのが精一杯で。彼らに取り入ろうと思ったわけではない、気に入られようと思ったわけではない。ただ、そうすることが唯一「自分らしく」いられることだったから。
 ――ひとの為にあるように、出来ることをしなさい。
 そう教えてくれたのは、父だった。
 相手が誰であれ、そうすることに迷いなど無い。たとえそれが、自分を殺すかもしれない相手であっても。
 二人の間で、千鶴の入れた茶の湯気が揺れる。白いそれがやがて空気に溶ける様を、視界の片隅でぼんやりと見ていた。
「あの時あの場に居合わせなければ、確かにあんな怖い思いをせずにすみました。そしてあのまま住み込みの仕事をしながら松本先生のお 帰りを待っていたか、一旦江戸に戻っていたかもしれません」
 そして、もしそうだとしたら、きっと。
 緩く笑みを口元に浮かべ、千鶴は斎藤を見る。その眼差しは相変わらず、感情の読めぬものだった。が、あるがまま誠実に、自分の言葉に耳を傾けていることだけは分かる。
 それで、十分だった。
「そうして……そのうちに父様も帰ってきて。私は言われるがままに、風間さんに嫁いでいたかもしれません」
「――っ!」
 千鶴の言葉に、はっとしたように斎藤が双眸を見開く。
「そんな人生の方が、私にとって『運が良かった』と、斎藤さんは思われますか?」




→ to be continued