** Happy C×2 **
 ●幸せに続く扉を開けて

 そのヒトは、突然現れた。


 入り口のベルが来客を告げたから、わたしはいつもの通り元気良く振り返って声をあげた。
 ううん、あげようとして、途中で止まっちゃった。

「意外そうな顔ね」

 そんなわたしをみてそのヒトは口元で笑い、「迷惑?」と聞いてきたから、わたしは我に返って慌てて首を振る。

「モカをいただけるかしら?」

 そのヒトはゆっくりとカウンターまで歩いてくると、椅子に腰掛けながらそうオーダーを出した。



(モカ……桂くんと、同じのだ)



ちゃん」
「あ、すみません! はい、モカですね?」

 思わず固まってしまったわたしは、マスターがかけてくれた声で我に返る。そしてオーダーを確認すると、聞こえていたとは思うけどマスターへそのオーダーを伝えた。
 わたしはなんだか落ち着かなくて、だけどそのヒトの傍には居たくなかったからカウンターの奥へと隠れたり、テーブル席を拭いたりしてた。


(マネージャーさん、だよね?)


 何回もお隣りにいってるから、覚えてる。
 珪くんのマネージャーさん。
 凄く大人って感じの綺麗な人で、最初はちょっとあこがれたりもしたけど、最近はなんだか、わたしを見る目が冷たい気がして、気が付けば苦手な人、になってたりする。
 前に1度、電話で言われた事がトラウマになってるのかも、しれない。


(話した事も余りない人を苦手って思うなんていけないことかもしれないけど……)


 ちょっとだけ、自己嫌悪。
 でも、どうしても苦手。
 口元は笑ってるんだけど、目の奥が笑ってない気がするんだもん。

ちゃん、お願い」

 マスターが淹れたてのモカをカウンター越しにわたしへと渡して、わたしはそれを銀色のトレイにのせてそのヒトへと運んだ。

「お待たせしました、モカです」
「ありがとう」

 そのヒトはにっこり笑うと、赤いマニキュアの塗られた綺麗な指で、カップを持った。

「美味しいわね」
「……ありがとう、ございます」

 そのヒトはモカを一口飲むとそう言い、口元に笑みを残したままわたしに声をかけた。

「ねえ、今時間あるかしら」
「え?」

 わたしはどうしてそのヒトがそんな事を言い出すのかわからず、意味もなく壁にかかった時計とマスターの顔を交互に見る。
 マスターは一瞬迷ったような色を瞳に浮かべたけど、黙ってそのまま頷いた。

「少し、でしたら大丈夫です……けど」

 わたしがそう言うと、そのヒトは又にっこりと笑う。
 笑ってない顔で、笑ったんだ。

「貴女まわりくどい話は好き? それとも嫌いかしら」

 テーブルの上に肘をついて指を組み、わたしの顔を見る。わたしは何故か、その赤いマニキュアにばかり視線がいってしまう。
 真っ赤な、爪。
 なんて答えていいかわからずに、思わず一瞬黙り込む。

「時間がないなら、前者でいかせてもらうけど」
「……どうぞ」

 胸の奥にチクリと何かが刺さる。何か、嫌な予感。聞かない方がいいよって、心のどこかがそう囁いてる。
 気持ちを決めかねているわたしに、そのヒトはあっさりと話を切り出した。



「葉月のことだけど、貴女、彼のことどう思ってるのかしら」



 予想はしてたけど、いきなり出てきた彼の名前に正直激しく動揺する。

「えっ、どうって、あの」

 思わず反射的に赤くなる頬に、噴き出すように笑われた。

「貴女って可愛いのね」

 この場合の「可愛い」が差す意味くらい鈍いわたしでもわかって、流石にちょっとムッとする。
 子どもだって、馬鹿にしてる。


「それで、ご用件は何なんですか? わたしもバイト中なので、あまり時間がないんですけど」


 わたしが少しムキになってそう言うと、ああ、ごめんなさいって、笑いの余韻が残る顔で口を開いた。



「そう、葉月のこと。貴女、葉月が好きなのかしら」
「……そんなこと、どうして言わなきゃいけないんですか?」



 表現しようのない感情が、奥から湧きあがってくる。なんだろう、凄く嫌な感じ。
 ムキになるわたしと対照的に、そのヒトは至ってスタイルを崩さず話を続ける。



「あのコね、最近困ってるっていうのよ。勘違いしてるファンが多いって……誰のことかしらね」



 ちらりとわたしを見るその目が明らかに「誰」が誰であるかを示していて、わたしはカッと赤くなった。
 勘違いって……。


「そんなこと、珪くんは言いません!」


 わたしがそう言うと、そのヒトはあっさり頷いた。


「そうね、あのコそういう事言うの苦手だから」




 ―――――!!




「周りがその分察してあげなきゃいけないのよ。彼を良くわかってるって思ってる貴女にならわかるわよね?」


 その言葉を聞いた瞬間にもう、何も言えなくなったわたしに対して、そのヒトは椅子から立ち上がりながらバッグからお財布を出した。



「ごちそうさま、おいくらかしら?」



 わたしではなくマスターに向かってそう言う。マスターが言っただけのお金をカウンターに置くと、もう用はないといったように出口へと歩いていった。
 ヒールの音が、やけに冷たく店内に響く。その音が1回なる度に、心の中に何か重いものが沈んでいく気がした。



「あ、そうそう」



 俯いたままのわたしに、そのヒトが何かのついでのように振り向いて声をかけた。


「最近葉月のファンも怖いから気をつけたほうがいいわよ? 皆結構『自分が一番』なんて勘違いしてるから……フフ、おかしいわよね」


 ベルの音が聞こえる。同時に蒸し暑い風が入ってきて、ドアが開けられたことをわたしに伝えた。




「貴女も楽しい恋愛しなさいな。折角可愛いんだから勿体無いわよ?」




 あこがれと恋愛をごっちゃにしない事ねって、言った言葉が最後だった。
 ドアが、閉じられる。
 カランって、ベルがあのヒトの余韻を残した。


ちゃん……」


 マスターが、カウンター越しに声をかけてくれる。
 わたしは憐れまれてる気がして、そんな自分が惨めで、でもそんなのは凄く嫌だったからわざと明るい声を出した。


「片付けちゃいますね! まったく、勿体無いなあ! マスターのモカって絶品なのに」


 カップを見れば、全然減っていないモカと、爪と同じ色の口紅がカップに残っていた。
 マスターは何か言いたそうにこっちを見ていたけど、わたしはわざと視線を合わさずに奥のキッチンへと向かった。

 残ったモカを、流す。
 流して、蛇口をひねって水を出し、カップをざぶざぶ洗った。




(泣かないもん)




 あんなヒトの言葉で。
 必要以上の力で、いっぱいの水を流しながらカップを洗う。




(絶対、泣くもんか)




 赤く残った口紅を洗い流しながら、今の自分の気持ちも全部洗い流せればいいのにって、強く願ったけど、それはむしろ逆に強くなるばかりで。
 迷惑、勘違イ……デモ言エナイ。





(言えない、の?)





 わかってる。あのヒトの嫌がらせだって。珪くんがそんなこと言う筈ないって。
 頭ではわかってる。
 この間珪くんに嫌がられてるって泣き出したわたしを、そんな事無いって言ってくれた珪くんは、絶対嘘じゃないって、わかってる。



(わかってるけど)



 こんなにも、心が痛いのはなんでかな。

 水の落ちる力と、流しの底がぶつかりあって激しい水しぶきをあげる。飛沫は四方に飛び散り、わたしの捲り上げたシャツの袖すらも濡らした。
 それでも、ただカップを洗う。
 ごしごしと磨きすぎて、親指が赤くなる。


「痛い……」


 じわり、視界が滲んだ。





(迷惑な訳ない……むしろ、逆)





 珪くん。
 珪くん、痛いよ。

 親指が赤い分だけ、痛みを伝えてくる。







 珪くんが呼んでくれる、自分の名前が好き。
 もっともっと自分の名前が長ければいいのにって、バカな事願ったり。
 彼が撫でてくれると、凄く嬉しくて髪の毛洗いたくなんかなくて困ったり。







 抱き締めてくれると、幸せすぎて泣きたくなった。





「痛いよう…………」





『自分が一番、なんて勘違いしてるから』




 そんな事、思ってない。
 珪くんが優しいのは、わたしがいつも後ろをくっついてるからで。
 突き放されると悲しくて、すぐ泣くから、珪くんは優しくしてくれる。


 それはクラスメイトだから。
 だから、特別だなんて思ってない。




 それとも、クラスメイトですらないのかな。
 ファンの1人だからなのかな。

 わたしは鼻をすすりながら水道の蛇口を閉めた。
 途端に訪れる静寂。



『あこがれと恋愛をごっちゃにしない事ね』



 あこがれ、なの?

 わたしのこの気持ちは。珪くんが好きで好きでどうしようもないこの気持ちは。
 あのヒトの言葉がぐるぐるまわって、ちっとも頭が働かない。感情に思考が支配されて、答えがどっかにいっちゃってて。






(あこがれでも、こんなに胸は痛いのかな)






 答えは、出ない。








□■□■




 その日は珪くんと口を聞かなかった。
 別に一昨日言われたことを気にしてるわけじゃないよ?あんなの気にしないもん。
 気にしてなんかない。

 いつもだったら一緒に向かう筈のバイト先に別々に行ったのも、たまたまそんな気分だっただけで、深い意味なんて無い。


ちゃん、配達お願いできる?」
「はーい、どこにですか?」


 マスターに笑顔で聞くと、指差す方向は、隣り。
 思わず、笑顔が固まる。



(だ、だめだよわたし!)



 これは、お仕事なんだから。
 それに、全然気にしてなんかないもん!

 顔をあげて、笑顔で良いですよって言おうとした瞬間、マスターが苦笑いをした。


「あー、やっぱりいいや。僕が行ってくるからちゃんお店頼める?」


 明らかにマスターは昨日の事を気遣ってくれていた。
 わたしはいいですって、行きますって言いたかったのに、口が上手く動かなくて黙る事しか出来なかった。
 マスターは「じゃあ行ってくるね」って言葉を残して、ベルの音と共に店を出て行った。




(バカ




 わたしはカウンターに並ぶ椅子の背もたれに、体重を預けて天井を見上げる。
 ……自分が嫌になってくる。
 嫌な事があると、すぐ泣いて、態度にでて、迷惑かけて。




『貴女可愛いのね』




 子どもだ。まるっきり子ども。
 事あるごとに昨日のあのヒトのセリフがわたしを追いかける。思い出したくなんかないのに、そう思えば思うほど彼女の言葉はわたしをがんじがらめにする。

 静かな音楽が流れる店内。お客さんは、今はいない。
 一人ぼっち。

 その時不意にカランってベルがなったから、我に返ってドアの方を見る。
 そこにいたのは。



「珪……くん」



 白いノースリーブに同色のパンツ。胸元を留めるベルトは外れたままで、そこは大きくあいていた。
 衣装のまま、だよね。
 呆然とするわたしの方へ不機嫌そうに歩いてきて、何も言わずにカウンター席へドカッと座った。
 明らかに、何かを主張してる。



「珪くん?」



 何も答えない。
 視線もわたしに向けるでもなく、ただ真っ直ぐに誰も居ないカウンターを睨んでいた。


「あ、あのね、マスター今いないの。配達に、行ったんだよ……?」


 怖い。
 こんなにぴりぴりとした彼を見るのは初めてだった。




『迷惑してるって』




 又、あのヒトの言葉がわたしを支配しようとする。


(気にしてなんか、ないってば!)


 わたしは頭から無理やりその言葉を追い出して、珪くんへ話しかけた。


「珪くん」
「お前……なんで先帰ったんだ、今日」


 相変わらず視線は真っ直ぐを睨んだまま、問いかけだけをわたしへと投げた。
 胸に広がる気まずさ。気まずくなんて無い筈なのに、だって別に避けたわけじゃないし、たまたまそういう気分だっただけだもん。

 ……なのに、なんでこんな嫌な気持ちになるんだろう。

 わたしが黙っていると、珪くんはわたしへと視線を移して更に言葉を重ねる。



「いつもだったら、配達もお前がくるだろ? ……何でだ?」



 何でって……。

 言いたいことなら沢山ある。聞きたいことも、同じ位たくさんある。でもそのうちの一つもわたしの口からは出てこなくて、代わりに全然思っていないことが口をつく。


「別に、なんでもないよ? それに、ほら、帰りだっていつも約束してるわけじゃないし、たまにはわたしだって1人で帰りたいし、配達だって外暑いからあんまり行きたくないときだってあるし」


 なに、べらべら喋ってるんだろう。


「それに、わたしドジだからまた撮影中迷惑かけるかもでしょ? そしたら珪くんいい加減怒られちゃうもん」


 何か、言って。



「……」



 もう何も言葉が出てこない。
 何か言わないと、何か喋らないと、溢れちゃうよ。
 わたしは必死で言葉をさがす。目がきょろきょろしてるのが、自分でもわかるけどどうしようもない。


「えっと、あ、今日のお勧めコーヒーだったら淹れてあるのがあるからすぐ持ってこられるけど、珪くんそれでもいいかな。ごめんね、本当はわたしが淹れてあげられればいいんだけど、まだダメなんだー」


 言いながら逃げるように奥へ行こうとするわたしの腕を、彼が掴んだ。

 思わずびくっと反応する。触れたところから熱がひろがって、わたしを翻弄する。
 捕まれたのは腕なのに、胸の真ん中がぎゅうってわしづかみにされたみたいに、息が詰まる。


 だめだ、珪くんが、痛いよ。




「……離して」




 自分でも驚くくらい冷静な声だった。
 静かに振り返ると、グリーンの瞳が何かを探るようにわたしを見つめていて、やがてすうっと傷付いたような光が浮かんだかと思うと、すぐ、消えた。
 それと同時にわたしの腕が解放される。





「……帰る」





 わたしは黙ったまま、彼の後姿を見送った。
 ドアのガラスごしに、彼の姿が消えていくのが見えて、それを見ていたら今すぐにでも追いかけてその背中に飛びつきたい衝動に駆られる自分を、必死で抑える。



 ―――わたしには、その資格がない。



 珪くんと入れ違いにマスターが帰ってきた。
 そしてわたしを見るとびっくりしたように入り口で立ち止まる。



ちゃんどうしたの!?」



 え? と、何気なく自分の頬を触れば。




(バカみたい)




 冷たい感触と共に、わたしは子どもみたいに泣き出した。







□■□■







 撮影所へ戻ると、入り口に数人の女がたまっているのが見えた。そいつらは俺の姿を見るや否や、一斉に口を大きくあけて騒ぎ出す。
 俺の名前を口々に呼んでいるのや、何かを喋っている声が聞こえる。



(うるさい)



 俺はただでさえささくれ立った気持ちを刺激され、怒鳴り散らしたい気持ちを必死で抑えて「どけよ」とだけ口にした。
 それだけで、悲鳴をあげる女達。



(バカじゃないのか)



 そのまま入り口から階段を登り、撮影が行われている部屋へと向かった。
 感情のままに、ドアを開け放つ。
 俺の気持ちそのままの音が部屋に響き渡り、皆が一斉にこっちを向いた。


「葉月、遅いわよ」


 マネージャーの叱責を無視して、俺はスタイリストのいる奥へ向かった。いつもならもう一言二言うるさく言う筈のマネージャーが、今日に限ってそれ以上何も言わなかったのがありがたかった。
 何か言われたたら、八つ当たりとはわかりつつも、完全にキレただろう―――。


「葉月ちゃん、じゃあ今の衣装で続けるから」


 衣装の乱れと、髪の毛の流れを数人のスタッフに囲まれるようにして整えられてから、白い幕の前に立つ。
 瞬間、合図と同時に浴びせられるフラッシュの洪水。
 眩しすぎる、白い光を、俺は怯む事無く睨みつける。




『離して』




 今だ手に残る、彼女の腕の感触と、その声。
 初めての、彼女からの拒絶の声。


「もうすこし顔あげて! そう、そのまま!」





(堪らない―――)





 こんなにも、気を許していたのか、俺は。
 普通とは違う感情を彼女に抱いているのは気付いていた。
 他の奴らとは違う、彼女だから、 だから大事にしたいと思った。


 なのに。




(あんな、たった一言で)






 俺は人形に戻る。










□■□■











「アンタどうしたのそれ!」



 次の日の朝、少し早く来すぎた俺は自分の机で寝ていたが、やけに甲高い女の声で目が覚める。
 机に突っ伏したまま視線だけをやれば、教室の後ろのドアのところで、髪を後ろでまとめた女が誰かに話し掛けている……



「えへ、転んじゃった」



 どうしたの、と聞かれた に目をやれば、制服のスカートから覗く両膝に張られた伴創膏の数々……どう転んだらあそこまでなるんだ?



「どこでどう転んだらそんなケガになるのよ!」



 俺と同じ疑問をもったらしい の友人は、まるで責めるようにへ矢継ぎ早に質問をしていた。



「まさかアンタ前と同じ……」
「奈津実ちゃん!」



 何かを言いかけた友人を制する。明らかにその時の視線は俺を見ていた。
 言葉を止められたそいつも の視線を辿るように俺を見ると、顔でしまったとでも言うような、バツの悪い表情を浮かべる。
 2人は小声で何かを話している。俺のところからはその声は聞こえなくて、余計にその内容が気になった。

 気にはなった……けど。

 胸に走る鈍い痛み。




(俺が心配しても……関係ないか)




 たったアレだけの拒絶が、俺を彼女から遠ざける。そう、きっと俺のからまわり。
 彼女にしてみれば、無口で無愛想なクラスメイトの面倒を見ていただけなんだろう。それを俺が、必要以上に受け取ったから。

 机に身体を預ける俺の横を、 が通り過ぎる。夏服の白が視界に入る変わりに、薄いブルーが目に入り、それで彼女が夏なのにカーディガンを羽織っている事に気が付いた。
 長袖の、カーディガン。



(風邪でも、ひいたのか?)



 思わず顔をあげる。 は俺のそんな仕草に気付いた風も無く、そのまま自分の席に座ってカバンから教材を出していた。
 俺は声をかけることも彼女のところへ歩み寄って確認する事も出来ず、再び時間まで寝ようとした瞬間、右のほうから感じる視線。
 視線をやれば、さっき と話していたやけに元気な友人らしき人物が、腕を組んでじーっと俺を睨んでいた。俺を促すように視線を へと一瞬移し、更に俺を見る。



(どうしろって……言うんだ)



 俺はそいつから目をそらし、前を向いた。同時に。



「……っタマ来た!!」



 憤りを含みそう吐き出した声と、授業開始のチャイムが同時に聞こえた。






□■□■






 今日も、一言も彼女と口をきかなかった。
 時折彼女がこちらを伺うように見ていたことは気付いていた。でも、ただそれだけだ。
 そして彼女は今日も1人で帰る。すれ違いざまに、「バイバイ」って声だけをかけて。
 1人、2人とクラスから人が消えていく。俺は何となくそのまま教室に残り、窓の外を眺めていた。

 急に、景色が色あせた気がするのは、なぜだろうか。
 夏の高い空も、木々の緑も、窓から時折入ってくる風も。



(違う……)



 色あせたのは、俺の方。
 1人、右の手のひらを見つめる。彼女の腕をつかんだ、右手。



(怪我、大丈夫だろうか)



 昔別れる直前にも転んで怪我してたよな、あいつ、すぐ転ぶから。
 思い出して、少し笑う。
 忘れてた。俺はもう、あの頃の俺じゃない。
 なのに、戻ったような気がして。あいつと一緒にいると少しづつあの頃の俺に戻ったような気がして、錯覚してた。



(今更王子になんて……なれるわけないのにな)



 幼い頃の約束。転んで怪我をした彼女に対しての誓い。
 守ってやる、約束。
 でも、その役目は俺じゃないのか……。

 見つめていた手をぎゅっと握り締めた。



「いたっ! 葉月発見!!」



 ガラッと大きな音がしたかと思うと、教室の前のドアから凄い格好をした女が入ってきた……今朝の、 の友人?
 良く見るとそいつが着ていたのはチアリーディングの制服だった。部活中に抜けてきたのだろうか。

 俺がそんなことを考えている間にそいつはつかつかと俺の方へ歩いてきて、俺の机をだんっ! と叩いた。手にもっていた、黄色のビニールテープらしきもので出来た応援の為の小道具が、カサリと音を立てて広がる。
 思わず顔をあげた俺を、そいつは正面から睨みつける。




「アンタがもてるのは勝手だけど、を巻き込まないで」




 いきなりの内容に、俺はわけがわからなかった。
 ただ、今アイツの名前は聞きたくなかった。一昨日の事が蘇ってきて、俺はまたイラつく自分を感じる。
 俺は黙って椅子から立ち上がると、そいつを無視して横にかけてあったカバンを掴み、出口へと向かった。そんな俺に頭に来たのだろう。後ろから激しい口調で言葉が突き刺さった。



「自分のファンの管理くらいしっかりしろってのよ! アンタが天狗になるのは勝手だけど、それで が変な目で見られていらない恨み買ってんのよ!?」



 その言葉の内容に、外へと向かっていた足が止まる。


 ――なんて言った、今?


 俺が振り返ると、そいつは少しだけ納得したように声のトーンを落とした。



「最近は少し落ち着いてたのに……なんで又再開するかなあ」



 最近は……って、言ったか、今。



「どういう、事だ……?」
「どーもこーもないよ、アンタの馬鹿なファンが勝手な嫉妬心のままに矛先を に向けてるって話をしてんの! アンタ頭いいのにそんな事もわかんない訳?」



 納得いかないっ、って言葉を続けていたが、俺にはもう何も入って来なかった。
 ファンの、嫉妬?

  に……?

 俺の脳裏に今朝のあいつが浮かぶ。両膝に貼られた伴創絞。隣りを通り過ぎたときに感じた違和感。
 それも、関係あるのか?



「葉月?」
「いつからだ?」



 え? と、俺の口調に気圧されてそいつが一瞬怯む。
 俺は身体ごとそいつへ向きなおり、再度聞きなおした。



が被害を受けているのは……いつからだ?」
「いつって……入学して半月後あたりから、6月半ばくらいまでかな? そのあと私が一回そいつらシメて、しばらく大人しくなってたし……今朝はホントいきなり。 原因言わなかったけど絶対そうだね」



 言ってるうちに昔を思い出して再び腹が立ったのか、みるみる眉がつりあがる。
 俺は、愕然とした。

 そういえば、一時期彼女のケガが増えた時期があった。
 でも が笑うから。何でもないって笑うから。
 俺は、その言葉どおり受け取って。お前ドジだなって……言ったり。

 思わず、右手で口を覆う。
 そんな俺に、たった今まで俺を責めていたそいつが驚いたように口を開く。


「アンタ……ホントに知らなかったワケ?」


 知っている訳がない。

 知っていたら、放っておくわけが無い。
 許す訳が、ない―――!




 ――――だんっ!!




 力任せに、さっき握り締めた右手で教室の壁を殴る。


(ふざけるな)


 何だよ、俺。何なんだよ俺は!
 情けなくて、むしろ笑えてくる。


(守るって言っておいて、何なんだこの様は)


「……ついでに言っておくけど、学校の連中じゃないよ? アタシ今日ソッコー確かめたから」

 まーこの奈津実サマを再度敵に廻すなんて根性あるヤツいないと思うけどーとあっけらかんとした顔で言う。
 その言葉に思わず彼女の顔を見ると、そこには、さっきまでの俺を責める色はなかった。

「アンタ達、バイト先近いんでしょ? その辺りなんじゃないの?」
「お前、ずっと知ってたのか……?」

 彼女が、そんな目にあってたことを。
 するとそいつは少しだけバツの悪そうな顔をして俺から視線を外す。

「アタシこういう性格だからさ、あの子が言いたくなさそうな事でも平気でズカズカ突っ込んで聞くし……そしたら同級生から嫌がらせは受けてるは先輩達からも変なこと言われてるわで……春先の時点でアンタに一言言ってやろうと思ってたんだけど、 に止められてたから」

 こんな、友達でも気付いてやれたことに、俺は気付いてやれなかった。その事実が重くのしかかる。
 そんな俺に気付かず、 の友人は考え込むように左手を口元にあて、視線を床へ投げる。

「水曜あたりからあのコなんか変なんだよ……怪我してきたのは今日だから、恐らく火曜日に何かきっかけがあって、実被害が昨日って感じじゃない?」

 俺は今度こそ歩き出しながら、そいつに礼を言う。



「助かった……教えてくれて」



 言って、振り向かずに走り出した。
 互いの、バイト先へ。







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