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●薄羽蜉蝣 1 |
風邪を引いた。
多分風邪だ。風邪じゃないならなんだというのか。うん、だから風邪だということにしておこう。
「……」
季節は夏で、さんさんと日差しが庭どころか千鶴の部屋にまで降り注いでいる。なのに寒いとは何事か。
せめてもとのそのそと移動し、日向で暖を取る。こんなことをしては余計に悪化すると分かっていても、寒いものは寒い。
朝はちょっと頭痛がするなという程度だった。食事も、いつもよりは少なめとは言え食べることは食べたし、中庭の掃除だってしたし、お洗濯物も――ああ、あれが決定打だったのかもしれない。
ぼう、っと熱っぽい身体を冷やそうと、散々水に触りまくった。一時の快適さと引き換えに、なけなしの元気が奪われたのかと思い至ってがっくりする。
申し訳ないけれど少し休ませてもらおう。その前に、薬を飲んだほうがいいのだが、この屯所内ではどこをどう探せばいいのか。
「考えるのも、だるい」
がくりとうな垂れて、畳に手を着く。ああ、本当に辛い。ここまで酷いのもどれくらいぶりだろうか。
「雪村君。午後の巡察はどうするかね――どうかしたのかい?」
「あ、井上さん……」
今日の昼の巡査はどうやら六番隊が担当らしい。井上は、いつもなら時間がある限り巡察に参加する千鶴の姿が見えないことに気付き、わざわざ部屋まで伺いにきてくれたらしいのだが、千鶴は申し訳ないと目を伏せる。
井上は千鶴の様子がおかしいことに気付き、腰を落として千鶴の顔を正面から見る。酷く生気の無い顔をしているが、頬だけが赤く、目がとろりとしている。断りを入れてから額や首に触れると顔を厳しくした。
「こりゃあ酷い熱だ。ほら、布団を敷いてあげるから休みなさい」
言うが早いか、井上は押入れの襖を開けると布団を取り出して引き始める。千鶴は慌ててそんな井上を制すが、逆に叱られたのは千鶴だった。
「いいから病人は大人しくしていなさい。そんなんじゃ治るものも治らんだろう」
「でも」
そんなことを殿方に、しかも、井上と言えば新選組の中でも有数の幹部で歳の頃も随分と上の範疇に入る。
ただでさえ巡察前の忙しい時間だと言うのに、世話ばかりかけてしまう自分が情けなくて千鶴は泣きたくなった。そうでなくとも、病気のときは何故か心細く、少しの事でも心が折れてしまうから。
「ほら、もう休みなさい。あとで薬を持ってこさせよう」
「すみません、本当に」
ただでさえ小さい身体を更に小さくして恐縮する千鶴を、皺の目立ち始めた井上の手が優しく撫でた。
「あんたはちょっと頑張りすぎだ。他の連中にはともかく、私にはもう少し甘えてなさい」
「井上さん……」
「あんたはどうか知らないが、私にしてみれば君は娘みたいなもんだからね。綱道さんが見つかるまでは、頼ってくれていいんだよ?」
無論、見つかってからも。
目を細めてそう言われてしまっては返す言葉も無い。勝手に視界が滲んで畳に雫が落ちる。そんな自分を、井上は更に優しく撫でてくれた。
小さい頃から母はいなかった。いつも家には自分と父の二人だけ。
だから、父が伏せれば自分が看病をしたし、自分が伏せればいつも傍に父がいてくれた。
『蘭法医とは言っても、苦しいのばっかりは変わってやれなくてすまないなあ』
父のほうが苦しそうに、泣きそうな顔すら浮かべてただただ額に濡れた布を当ててくれ、髪を一生懸命撫でてくれたことを思い出す。
(父様)
今どこにいるの? 無事でいる?
会いたい。会いたい。
なのに自分は探しに行けない。ごめんなさい父様。私がこうしている間にも、父様は辛い思いをしているかもしれないのに。
「と……さま」
「…………」
井上に言われ、薬を運んできた沖田は零れた呟きに沈黙する。良く寝ているようだったので起こさずにいたのだが、呼吸は荒くなるばかりで一度起こそうと思った矢先の出来事だ。
つ、と少女の頬をこめかみに流れた涙に眉をひそめた。その理由は、わからない。
左手で千鶴の眦に触れて涙をぬぐう。わずかだった接触に千鶴が身じろぎし、緩慢な動作で目蓋を開けた。
「とう、さま?」
かすれた問いかけに含まれた呼気が熱い。沖田は咄嗟に千鶴の両の目蓋を覆うように手のひらを当てる。
千鶴の手が弱々しくのびて、自分の手に触れる。その指も嫌に熱かった。
感触を確かめるように細い指が自分の手を撫でていく。その指が手首までのびて、きゅ、とつかまった。
「とうさま」
子どもなのだ、これは。
幾ら強がったとしても、男の格好をしていたとしても所詮は女子でしかなく、子どもだ。
だから自分はほんの少しだけ優しくしてやろうという気持ちになっただけ。
反対の手でそっと千鶴の髪を撫でる。熱の高さを伺わせる様にしとりとした温かさは、何故か酷く心を波立たせる。
安心したように再び眠りに落ちた千鶴を確認し、それでも頭を撫でる手を止めようとは思わなかった。
「いいよ。今日だけ君の父様になってあげる」
夏の空気ですっかり温くなった桶の水を汲みなおし、絞った手ぬぐいで千鶴の額をぬぐう。再度冷やしたそれを額の幅にだけ広げ、ほてりの止まらないそこに乗せた。
荒い呼吸を繰り返す唇は、いつもの面影なくかさかさに乾燥している。ああ、痛そうだな、と――思って。
薬を飲むために持ってきた水を口に含む。そうしてそっと。
近付く気配を感じたのか、千鶴の睫が細かく震えた。眼前の動きに、沖田が我に返る。
――ごくん。
一気に飲み干した水は、液体とは思えない痛みで喉元を通過して行った。だがその痛みすら、己が無意識に行った行動を落ち着かせる要因にはなりえない。
僕はいま、なにを。
酷く動揺し、絶句する。千鶴はそんな沖田の動揺になど気付く様子もなく眠りの中だ。
冷静に考えて。千鶴は今病人で、いつもより大分弱ってるからちょっと優しくしてやろうと思っただけで。
子どもだから、しかも境遇が境遇だし少しくらい同情してやってもいいと思っただけで。寝ているときくらい、夢を見させてやろうと思っただけで。
だけど、父親は自分の娘に口移しで水を飲ませようなどとするだろうか。
無意識に、千鶴のそれに触れそうになった己の唇に触れる。未だ濡れているそこは、微かに震えているようにも思えた。
千鶴を見る。そして今度はゆるく絞った布で唇を湿らせてやる。
このままこれで口鼻を覆ってやってもおもしろいよね、との考えも一瞬脳裏を掠めたが、勿論冗談だ。
額に貼りついた前髪を整えてやり、膝に付いた腕で頬杖を付く。
「君は……子どもだろ?」
知らず願うようになった声音に沖田は気付かず、ただただ眠りの中にいる千鶴を見つめる。
そしてどれくらい経っただろうか。気温が徐々にその厳しさを緩め、生ぬるい風が時折部屋を通るようになり、白いだけでしかなかった光に色味がついてきた頃。
「……」
「目が覚めた?」
突如浮上した意識に最初に触れた声は、千鶴を戸惑わせる。幼い頃の夢をみていたせいだろうか、今自分がどこでどうしているのか咄嗟に把握できなかった。
「目が覚めたならとりあえずこれ飲みなよ。起きられる?」
こくりと頷いて半身を起こそうとしたと同時に、額から布が落ちた。それでやっと現状を把握する。
「おきた、さん?」
「何。今わかったの?」
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